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人生を一度しか生きられないなら、迷っている時間はないのかもしれない

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はじめは一人で車に乗っている。

進むごとにさまざまな出来事が待ちかまえている。収入を得るための職業がきまる。そして結婚。助手席に相手が座る。

人生の荒波はそのあとに待っている。順調に進んでいくプレイヤーもいれば、転落人生を送り一文無しになるプレイヤーもいる。

 

どのような人生になっても、ゴールすればその人生は終わる。勝っても負けても、終わりである。

 

もし、別の人生を体験したければ、もう一度プレイすればいい。車にピンを一つさして、ルーレットを回せば、新しい『人生ゲーム』の始まりである。

 

 

ただ、本当の人生にルーレットもなければ、もう一度もない。勝ち負けを決める物差しもない。あるのは、決められた人生の長さを燃やすロウソクと、それを燃やし続いている『今』があるだけだ。

 

生きていることを、当たり前のように何も考えないのは、死から離れすぎているからである。

「生と死」は表裏一体。コインの表と裏のようなものだとわたしは考えている。どちらがいいか悪いかはない。どちらも対等な位置づけである。

 

それでも、生きていることのほうが大事と思うのは、死んだあとの世界を誰一人として知らないからである。たとえ知っている人がいたとしても、すべての人が死後の世界を共有することはできない。だから「生きることは大事」に思いが偏ってしまう。

 

 

だけど、生きることは苦しい。

 

精一杯努力しても、そのすべてが報われることなどない。多くの人が挫折し、あきらめ、投げ出し、悩みもだえる。

 

たとえ苦労して坂道を駆け上ったとしても、次に待っているのは下り坂かもしれない。転がる石のように堕ちてしまう人生かもしれない。

 

 

この世は、生まれたときから不平等にできている。

どこの国に生まれるか、どこの親の元に生まれるか、健康に生まれるか、障害をもって生まれるか、生まれてくる赤ちゃんに決めることはできない。

それを「宿命」というならば、あまりにも残酷ではないか。不平等のほうがまだ救いはある。

 

 

ただ、一つだけ平等に与えられたものがある。それが「死」である。人は必ず死ぬ。

 

死ぬことがわかっているなら、生きているかぎり、苦しく逃げ出したい人生でも、迷っている時間はない。

今日と変わらない明日があるとは限らない。一分先のこともわからないのに、明日のことなどわかるはずがない。

 先延ばしにしたことを、確実に実行できる保証などどこにもない。

自分が先延ばしにしたことは、その時間を先延ばしにされた人がいることと同じである。

 

もし、人に会うことを迷って、あなたが限られた人生の時間を消費したら、あなたと同じように相手の人生の時間も進んでいるのである。

あなたが迷っていたほんの少しの時間でも、相手の人生に何が起きるかわからないのである。

 

あの人に会っておけばよかった。あの言葉を伝えておけばよかった。あのときはこうしておけばよかった。

 

過ぎた時間はもう取り戻せない。一度しか生きられない人生に、迷っている時間はないのである。

 

そう思いながら、急いでこの文章を書き上げた。

 

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