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いつからか、正月というそわそわするような日がなくなっている

ブランコ

著作者:meister schuninio

 

街を歩けばいつもと変わりない姿がある。

ビルに備え付けられた大型のテレビには企業のCMが流れ、青信号に変わった交差点では人々が縫うようにすれ違う。店には買い物客があふれ、カフェではイヤホンをつけた若者が小さな画面と向き合っている。

何気ない平日ではない。一年最後の日である。

 

「なにもしなくていいから楽なんですよ。大晦日は夕方から息子夫婦と孫が来て、年が明けた深夜に帰るみたいだから」

一階に住んでいる大家さんはそう言いながらニコリと笑って、口元に深く刻まれたシワを作った。80歳も半ばにさしかかっているが、元気な女性である。

店で買った寿司と、唐揚げやフライドポテトなどのオードブルを買っていくから何も作らなくていいと息子夫婦から言われたようである。用意するのは年越し蕎麦ぐらいと言っていた。

 

両手一杯に重い食材を買い、何時間もかけて多くの正月料理を作っても、すでに夫婦二人で過ごす大家さんにとっては必ずしも必要としているものではないのかもしれない。たくさんの親戚が訪れるならまだしも、夫婦二人、正月料理を作る労力と時間を考えれば、出来合いの寿司とオードブルでいいのかもしれない。二十代の孫にしても、ゴロンとした野菜ばかりの煮物よりも、食べなれた揚げ物のほうが口に合うのだろう。

 

生まれ育った土地や、年齢にもよるかもしれないが、わたしが小学生だった30年前は、年末が迫るにつれて気持ちがそわそわしたものだ。

友達と外で遊び、暗くなりはじめる夕方までに雪道を早足で帰る。「遊び納め」は29日ごろまでである。

30、31日は家にいなければダメという、そんな雰囲気があった。狭い台所では正月料理が作ら、豪華ではないが、やはり特別感はあった。

そんな、そわそわするうれしい気持ちの一方、買い物を頼まれ、家から少し離れたスーパーに行くときの道には、歩く人の姿もなければ、行き交う車も少ない。全体がひっそりとしている。そこに雪が降る表現は、まさに「しんしん」とである。雪の街に漂う物悲しさを小学生だったわたしは、小さいながらも感じていたのだろう。何かが追いかけてくるようなそわそわした気持ちは、わたしを自然と早足にさせた。

普段では感じられない、そういった特別な感情が、わたしの気持ちをよくも悪くもそわそわさせていたのかもしれない。

 

年末が迫った街中を歩き、帰りにスーパーに立ち寄る。買い物客のカゴを見てみると、多くの食品があふれんばかりに入れられている。それを見て、あれもこれも買っておこうかという気持ちに一瞬なるのだが、

(もし足りなければ近くのコンビニで買えばいいか)

そんな思いが先に立つ。

 

30年前には想像できなかったほど暮らしは便利になった。年末年始は休まず営業が当たり前の今の時代と引き換えに、わたしたちは不便だった時代を交換したのかもしれないが、わたしが感じたそわそわするような気持ちも、一緒に手放してしまったのかもしれない。

 

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