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「共食」で子どもに食を学ばせる前に、食を学ばせる親のベースを作ることが先ではないか

THINKs THINKs-日常のこと

なくなるもの

 

 

子ども:「渋滞って何?」

 

親  :「そんなものもあったな」

 

 

バイクに乗った親子が高速道路の料金所で交わす会話だ。

バイクでも高速道路でETCが使えるようになったときのCMだったと記憶している。数年前のものだ。

 

普段、車を使うことがないので、実際にどれほど高速道路の料金所で渋滞がなくなったのかわからないが、CM自体は時代の進歩を感じさせるものだった。

 

車を使わない人でもETCがあることで煩わしい料金所での手間がなくなったことはわかるだろう。

 

ただこれから先、渋滞そのものがなくなるとは考えにくいが、完全になくならないにしても、今よりもさらにストレスが減る便利な技術が生まれるかもしれない。

 

コスト削減しか考えない今の世の中が続けば、不便なものや、効率が悪いものは、その問題が解決されたり、新たな技術の開発によって、姿を消していくことになる。

 

実際、ETCが生まれたことで一時停止の料金所は少なくなった。

 

高速道路を使う人にとっては不便と感じるストレスがなくなったのはいいことだが、料金所の仕事をしていた人たちにとってはETCに仕事を奪われる結果となった。

 

人間でなくてもロボットやコンピューターで対応できる仕事は今後もことごとく人間から仕事を奪っていく。

 

店舗のレジや受付はその代表例とも言える。

 

アメリカの一部のマクドナルドでは店舗従業員からタッチパネルの注文に変わっている。

マクドナルド

http://business.newsln.jp/news/201604112024400000.html

 

日本ではハウステンボスのホテルが「ロボットだらけのホテル」としてメディアでも取り上げられて話題になった。

www.nikkei.com

 

経営者からすれば、大きな割合を占める人件費を削減できれば、これほどいいことはない。それが文句を言わないロボットやコンピューターであればなおさらだ。深夜割増料金もかからないし、人間と違い疲れを知らない。

 

 人間の生活は懐古

食卓

 

世の中は合理化。簡素化。コスト削減という流れなのに、われわれ人間の社会はその流れに逆らうようなことをする。

 

 

先日、近くの図書館に行ったとき、区の広報が出している無料の区新聞が目についたので手にとった。

 

「6月は食育月間」

 

左隅に書かれていたその言葉の下には、

 

「共食」

 

ということが書かれていた。

 

紙面中央には母親と父親。そして小学校低学年と見える二人の子どもと、赤ちゃんイスに座った1歳ぐらいの赤ちゃんが食卓を囲んでいた。食事をしている子どもの笑顔。一家団欒という言葉そのまま当てはめることができる写真だった。

 

「共食」とは読んで字のごとく、「誰かと共に食事をする」ことを言うらしい。

 

その良いところとして、

  1. 家族とのコミュニケーションが図れ、楽しく食べることができる。
  2. 規則正しい時間に食べることができる。
  3. 食について学べる機会となる。
  4. 栄養バランスのよい食事ができる。

 

「共食」からはこれら4つのことが学べると書いていた。

 

これを読んだとき、違和感を覚えずにはいられなかった。

違和感という言葉は正確ではないかもしれないが、居心地が悪い。そんな感じだった。

 

「共食」という言葉はどうでもいいのだが、こういう言葉を使ってまで「食」を学ばなければならない時代になってしまっている今の世の中の貧しさと同時に、そもそも子どもに「食」を教える前に、親が子どもに「食」を教えられる環境が必要であり、その親ですら彼らの親の代から「食」を教わったことなどないのではないかと考えてしまう。

 

さらに言えば、これから先、この新聞に掲載されている家族写真のような昭和の一家団欒風景の時代に世の中が戻ることはほぼないと言えるのではないか。

 

低所得で両親共働きが当たり前の時代に「共食」などと言うのは、今の世の中の本当の暮らしぶりを知っている人間の発言ではないだろう。

 

わたくしはここで言われている「共食」が悪いなどと思ってはいない。

むしろ「食」は人間が生まれてから死ぬまで切っても切れないものであり、一番はじめに学ぶべきことと思っている。

 

ただ、時代は進んでも、後退させることはできない。

 

これだけ不安定な時代に「共食」というスタイルはもはやフィットしないのではないか。

食事よりも睡眠時間。仕事に忙殺され、昼食はコンビニ弁当。疲れた体を引きずり満員電車に揺られる。帰宅途中にあるファストフード店に入り、給油するように無言のまま食べ物を口から体に流し込む。家に帰り一眠りすればまた仕事である。

ここに「共食」の入り込む余地はあるのだろうか。

 

 

わたくしが小学生だった1980年代は家族揃って食事をすることがごく当たり前のことでだったし、上に挙げた4つの利点をわざわざ考えなくても家族揃っての食事は学ぶ場でもあった。

 

もちろん家庭環境によって違いはある。

親が働いていて一緒にご飯を食べられない子どももいる。

塾通いする子どももいる。

わたくしの場合は、わたくしが小学生のときからすでに家庭が崩れかかっていたから、一家団欒はほぼなかった。それでも10歳ぐらいまでは両親どちらかとは食事をしていた。

 

父親は、親としての「手本」にはならなかった人だったが、子どもに対するしつけだけは厳しかった。特に食事のときだ。この時の経験は今でも体に染み付いている。

 

親が作るから、それなりの栄養バランスがとれたものは用意された。

食事時間も規則的で、中途半端な時間に食べることはあまりなかった。

食事のときはテレビは消さなければならなかった。子どもだからどうしても観ていたいのだが、そういうときは父親のカウントダウンが始まる。それでもテレビを消さなければ頭を殴られた。テレビを観れないのだから、いやでも親とコミュニケーションを図ることになる。

食事中、箸の持ち方が変であれば指摘され、肘をついての食事は厳しく注意された。

 

「共食」の利点など考えなくても、親との食事は「食」を学ぶ場でもあった。

 

誰かと食事に行ったときに、

 

「相手の食事風景を見れば育ちがわかる」

 

とはこういったことからだろう。

 

ただ、これはわたくしが子どものころの話である。

 

時代が変わりすぎた今の世の中では、毎日親と食事ができる子どもがどれほどいるのだろう。

 

わたくしは三人兄姉だが、今は子どもは一人ということが多い。

低所得のため両親は共働き。少し家計に余裕のある家では、子どもの将来のことを考えて塾や習い事を複数やらせている親もいることだろう。そういった子どもたちの夕食はコンビニなのだろうか。

 

問題になっている「子どもの貧困」を考えれば、子どもが貧困になりやすい環境は親が離婚して片親であることが多い。

小学校の給食費も払えない。子どもにまともな生活さえさせてあげられない。

そのような状況ではなおさら「食」に時間とお金をかける余裕などないのである。

 

「家族」というコアは壊れかかっている。

子どもが冷蔵庫を開け、電子レンジで温めた食べ物を一人で食べるものは「ご飯」ではなく「エサ」である。

 

 

世の中はこれから先も利益を追求し、合理化を目指して進んでいく。

 

一握りの人が富み、残りの大多数の生活はさらに苦しくなる。

 

子どもを生める環境が整ってもいないのに、「食」を学ぶことなどまだまだ先の話である。

 

「共食をしよう」などと耳障りのいいことを推進する前に、もっと考えるべきことがあるのではないか。

 

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