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人の一生と、人類の総和は『Zero-Sum Game』

『ゼロサムゲーム』という言葉をご存知だろうか。投資の世界、特に為替取引などのFX取引で言われたりする。簡単に言えばゲーム参加者の得点と失点の総和(sum)が零(zero)になることである。一方が得点すると他方が失点する。

 

わたしはこの言葉を、株を始めた20代前半のときに知った。今では当たり前のようにわかっているの言葉だが、ふと考えたとき、人間の一生、人類の総和も同じようなものではないかと思ったことがある。その考えは今でも変わらない。

 

「いいときもわるいときもある」とはまさにそのことなのだが、わたしたちはいつまでもいい人生、楽しい一生でいたいと思うが、そんなことがずっと続くことはない。必ず躓いたり、嫌な思いをしたり、成功から転落する人もいるだろう。大なり小なり、どのような出来事でもわたしたちはそれを「いいこと」または「わるいこと」と区別している。人によってその出来事の受け止め方に違いはあるだろうが、一生のうちに経験した「いい」も「わるい」も合わせたら、結果的にゼロになるのではないかと、わたしは考えている。

 

成功した人には、その成功と同じ量だけマイナス要素が積み重なりゼロになる。また逆に挫折ばかりの人には、その挫折と同じ量だけのいいことが積み重なりゼロになる。成功や失敗と同じだけのことが一回起こってゼロになるわけではない。例えばいいことが10だとしたら、小さなわるいことが1とか3とか起きて、それが足されてゼロになる。人はだれでも幸不幸を足したら最終的にゼロで終わると思う。

 

しかしこう思う人もいるはずだ。ホームレスの人と一等地のタワーマンションに住んでいる人と比較したら、タワーマンションの人の不幸のほうがホームレスの不幸よりもまだいいのではないかと思うかもしれない。それでもわたしはそうは思わない。彼らの違いは、ぞれぞれ持っている器の許容量が違うからだ。ここでいう器とはその人の器量とか人格の善し悪しではなく、『身の丈の量』の違いである。

 

例えば「ホームレス」と聞くとだれもがかわいそうとか、惨めな人とか思うかもしれない。たしかにそうかもしれないが、しかし彼らにも彼らなりの身の丈の量の「いいこと」があるはずだ。道ばたでお金を拾ったとか、仲間からおいしい食べ物をもらったとか。それだって幸せの一つなのではないか。経営者には経営者の身の丈の量があって、大きな契約ができたとか、新製品ができたとか。人は身の丈が変わることによって幸不幸の許容量も違ってくる。

 

だがそれでも「差」があることに納得できないこともあるだろう。

 

それならば、空を飛ぶ鳥のように俯瞰して人間を見てみるといいいのではないか。何不自由なく暮らしている人がいる一方で、貧しく生きている人もいることは事実である。しかしここでも、同じように彼らを合わせると、結果的にはゼロになるのではないか。

 

わたしはごくありふれた日本人の男性だ。日本ではありふれているかもしれないが、アジアやアフリカの人からすれば幸福な部類に入るかもしれない。人類を俯瞰して見たとき、わたしが幸福でいることの代わりに、アフリカにいるだれかが苦しい思いをしているのかもしれない。しかしわたしからしてみれば、どうして自分だけ不幸なんだ、と思うこともあるが、わたしが不幸でいる代わりに、アメリカにいるだれかか幸福でいるのかもしれない。そう考えると、やはりこの世はゼロサムゲームとしか思えなくなってしまう。

 

冷たい夜の空を貫くように地上から伸びた建物の下には、明日さえどうなるかわからない人がいる。もしわたしたちの一生が、わたしの考えるようなゼロサムゲームであるならば、それはこの地上を創った神々の戯れであり、そう思わなければ、これほど虚しい歳月の積み重ねはない。

 

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