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害あって利なし

 友人が大腸ガンの疑いがあるような数値が出たので病院で検査を受けた。たった一つの数値が高いということで病院側が「うーん、気になるね」となり、カメラで検査という流れになった。

 

わたしより年齢が上のその友人は、いつも活発に動き回っていて、年に数回、海外にも行き、近ごろは住んでいるマンションの目の前にある大きな公園の外周を、朝早くウォーキングするのが日課だと、自慢げにわたしに話してくれた。

 

人柄もよく、多くの友人の相談事の聞き手となることが多い。相談するほうは聞き手がいることで気分が幾分よくなるだろうが、自分のことのように思い悩んでしまうその友人の性格をわたしは知っているので、複雑な思いでもある。その友人が一回の血液検査で出た高い数値を医師から見せられ、念のため検査しましょうとなった。

 

「ガンかもしれない」「ガンならどうしよう」という不安をにじませたメールが送られてきた。検査前に一度友人と会っても、検査のこと、ガンの疑いであることをひどく気にしている様子が顔から見て取れた。

 

本人の不安はよくわかる。体調も悪くない。体になにか不都合が生じたわけでもない。それなのに思いもしなかった医師の一言で友人のこれからの生き方が変わるかもしれない岐路に立たされているのである。結果次第では生活を大きく変えなければならなくなるかもしれなかった。

 

わたしは食事をしながら友人からこれまでの経緯と、検査までの流れを訊いた。それはわたしを不快な気持ちにさせる話だった。友人や、検査に対してそう思ったのではない。医師や、友人の周囲をとりまく環境に対してだ。

 

医師は友人を毎日見ているわけではない。どういった生活をしているかも知らない。ただ数値を見て善し悪しを決める。たまたま前日のなんらかの影響があってよくない数値が出たとも考えられる。しかし友人がどうこう言っても医師にすれば数値のほうが信用できる材料だし、なにかあって問題になると困るという思いもあるのだろう。医師は患者に不安感を与えるような声色、受け答えをする。友人の不安もさらに強いものになっただろう。「がん」というだけで周囲も不安げな顔をする。その顔を見ただけで友人もさらに不安になる。

 

「病院が病気をつくりだす」わたしはいつもそう考える。病院には病人がいる。だれもが知っているようにあの空間は特殊である。いい悪いの話ではない。その場所が持つ「空気感」「気」というものがある。「ガン」と聞いた友人の「気」も一時の間、変わったと思う。

 

わたしは病院や検査が悪いと言っているわけではない。重い病気になれば病院で治すしかないだろうし、検査によって悪いものが見つかることもあるだろう。しかし逆に、なにかあったらすぐに病院や検査に頼ることもどうだろうと思う。病院の空間でさらなる不安になることもある。それが本当に病気に繋がることもないとは言えないのではないか。わたしはよっぽどのことがないと病院へは行かない。ノロや急性胃腸炎になったこともあるが三日間ひたすら寝て治した。外国ではインフルエンザにかかっても日本のように病院で観てもらうことはそう多くないようだ。人間に備わっている自然治癒力を侮ってはならない。

 

「病は気から」なんてありきたりな言葉を使いたくはないが、やはりそうなのだ。「気」がつくりだすとわたしは思う。わからないことを、結果が出てないことをあれこれ考えることは、害あって利なし、である。

 

ポリープがあったようだが「気」にするほどでもないということだった。結果報告をしてくれた友人は塩味のつみれ鍋を堪能していた。

 

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