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恋は、時間ではなく、量である。

恋人 手をつなぐ

 

彼女は恋に堕ちた。

 

 

ストレートに感情を表現するその性格は、時折危なっかしくも感じるときがある。

 

「こんな気持ちになったのは十代最後のときに好きになった人以来だな」

 

そう言って彼女は電話の向こうで笑った。

 

わたしは女性から恋愛相談をうけることがある。

姉と狭い部屋で四年ほど暮らしたことが原因かどうかはわからないが、女性と接することにまったく抵抗はないし、相談された女性に異性として好意を持つこともない。そういった雰囲気を女性のほうも感じとるため、話しやすい相手なのかもしれない。

 

彼女は好きになった相手と出会ってまだ間もないと言った。

わたしは、相手を好きになるのは、その相手と話をし、何度か食事をして、その人との「間」や「居心地」を感じてから、さらに一歩前に進むという「行程」のようなものを前提に考えていたが、彼女はちがった。

 

「どれだけ一緒にいたら、好き、言えるの?」

「ほかに何を知れば、好き、いっていいの?」

「何年も一緒にいて、それでも前に進まない人がいるのに、出会った時間が短いとダメなの?」

 

わたしは言葉に詰まった。

彼女の言っていることはまちがっていない。相手を好きになるのに、時間は問題ではないのかもしれない。そう思った。

 

 

インドのニューデリーから電車に揺られ、巡礼の聖地バラーナシに着いたのは早朝6時だった。

朝靄の中、リュックを背負い、ガンジス河に向かった。22歳のときだった。

 

「ガート」という火葬場が、ガンジス河沿いにいくつもある。

高く積み上げられたら薪の中に、この地で死を選んだ人たちの、魂の抜けた体が放り込まれている。一日中焼け焦げた臭いが周囲に漂う。

 

「日本の方ですか?」

 

黒煙が立ち込めるガートを遠目に見ていたわたしに、そう声をかけてきたのは、30代前半のショートヘアの女性だった。

 

わたしはバラーナシに着いてから、この日本人の女性と、この女性が数日前に知り合った別の日本人の男性。そして大学の卒業旅行で一人旅をしている20代の小柄な女性と出会った。

 

それぞれが旅の途中であり、見えない縁でこの地で出会い、数日後には再び旅が始まる。そんな、ほんの一コマの時間であった。

 

わたしはバラーナシに4、5日滞在した。

埃っぽい街を歩き、夕日が沈むガンジス河を眺め、知り合った日本人の人たちと会話を楽しんだ。

 

もう一人の男性は30代半ばで、数回インドを旅した経験があった。このときはバラーナシですでに1カ月近く滞在していた。

彼はホテルの屋上のバルコニー付きの部屋に宿泊していた。わたしたちはそこで彼が作るカレー料理を食べ、それぞれが、これまでの旅の話しをし、そしてこれからの行程を話した。

 

わたしは知り合った人たちと食事をしたのは、滞在中に二回ほどだった。旅先では一人のほうが気が楽である。

 

はじめにバラーナシを離れたのは、わたしがはじめに知り合ったショートヘアの女性だった。

わたしたちは駅まで見送りに行った。よき旅になるように願いながら、笑顔で別れた。

 

その数日後、次はわたしがバラーナシを離れた。

駅には男性と、20代の小柄な女性が見送りにきてくれた。

ほんの数日という短い時間ではあったが、彼らと出会えたことに感謝して、別れを告げた。

電車が動きだし、わたしは二人に向かって手を振った。彼らもわたしに手を振ってくれたが、ぎこちない二人の姿が気になった。そしてそのわけがすぐにわかった。

 

二人のもう片方の手は、しっかりと繋がれていた。

 

 

日常とちがう特別な環境が、恋のスピードを加速させることはあるかもしれない。

気がついたときには、自分でも制御できなくなった『恋』が、ガードレールを突き破り、一直線に堕ちていく。「恋に堕ちる」とは、こういうことかもしれない。

 

インドという日常とはちがう空間。彼らは短い時間で恋に堕ちた。

 

やはり、恋に時間は関係ないのかもしれない。

相手のことを知り、相手の「間」や「居心地」を肌で感じられたら、それがたとえ出会って一日だけであっても、恋に堕ちることは自然の流れなのかもしれない。

 

「恋は時間の問題じゃなくて、量の問題よ。あたしには10年の恋も1日の恋も同じなの」

【シモーヌ・ベルト】

 

『恋』について調べたら、こんな言葉があった。

 

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